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パラサイト 半地下の家族 水石が招いた悲劇

パラサイト 半地下の家族

このレビューではポン・ジュノ監督の思いに従って、なるべく前半以降の大きなネタバレをせずにレビューしていきます。

『パラサイト 半地下の家族』水石がもたらしたもの

『パラサイト 半地下の家族』では映画の最初から最後までかなり重要な小道具として水石が使われています。
日本人にとってはあまりなじみのない水石というものを、どういう意味で劇中で使用しているのか考察していきます。

水石とは何か

自然石を室内で鑑賞する日本の文化のことを水石といいます。
水石は古代中国から伝わったとされており、その後日本独自の文化として繁栄していったと言われています。
中国では珍しい形の石が好まれますが、日本では島の形や山の形などの石の鑑賞が好まれているようです。

パラサイトに出てきたのは山の形をした水石でした。

韓国で水石が親しまれているかどうかは分かりません。
ですが、朝鮮半島は「石のくに」として有名で、石造技術が発達していたそうです。
そう考えると、石は韓国人にとってもしかしたら親しみのあるものかもしれませんね。

ギウにとっての水石

友人がミニョクがギウのために持ってきた水石。
ギウが四回も受験をしていることを知っているので、きっと開運や勝利という意味も込めて石を持ってきたのでしょう。
「食べ物のほうがよかった」と言っていた母チュンスクも、ギウが家庭教師の面接に行くときに玄関先で念入りに石を磨いています。
明日の生活も危うい家族にとっては水石など何の価値にもなりません。

しかし、ギウにとっては違います。
ギウはエリート大学生のミニョクに憧れがあります。
受験を四回もする程、大学進学への思いは大きいですし、きっと水石をもらった時も
趣味で水石を眺めるような、余裕のある生活をいつかするんだと思っていたのではないでしょうか。
その思いが強ければ強いほど、水石は富裕層への憧れとしてギウに重く張り付いていたのです。

大洪水の日、ギウは食料でも衣類でもなく、ただ水石を抱えて避難所に向かいます。
父になぜ石なんか持ってきたのか聞かれて「僕にくっついて離れないんです」と答えます。
その言葉通り、富裕層への憧れは絶望的な状況でも消えることなく彼にくっついいてまわるのです。

彼について回る水石は山の形をしています。
それは雄々しく険しい山。
きっと半地下の家に住むギウがこの山を越えていくのは簡単ではないでしょう。

最終的にギウはこの水石を自然に戻します。
富裕層への憧れを手放したと思えますが、今度はまた違う動機で富裕層への憧れを抱くことになるのです。

『パラサイト 半地下の家族』キム家とパク家の違い

『パラサイト 半地下の家族』において巻き起こる騒動の発端はキム家とパク家によるものです。
この二つの家族の違いが明確だったのでまとめてみました。

キム家の団結力

半地下で暮らすキム家は家族みんなでいっしょにすることを好んでいます。

内職するのも家族全員で。
 冒頭でピザの箱の組み立てを家族全員で行っています。

仕事を探すのも家族全員で。
 ピザの従業員のバイトを探すのも、情報収集から交渉まで家族全員で行っています。
 パク家から仕事をもらおうと画策するのも家族全員で行っています。

食事も家族全員で
 家で家族そろって食卓を囲んでいます。
 運転手食堂でも家族全員で訪れて食事をしています。

楽しむのも家族全員で
 パク家の留守中に家でくつろぐのも家族全員で楽しんでいます。

貧困層の描写として、持っている資産が少ないので全員で分け合うということがあると思います。
キム家がこれだけ家族でいろいろなことを共有するのは、単純に仲がいいからというわけではないでしょう。

パク家の距離感

キム家に対してパク家はバラバラな印象が強いです。

家族一緒に食卓を囲むシーンがない
 家族全員で食卓を囲むシーンは一度もありません。
 特に父親は仕事人間で帰ってくるのは夜遅いこともしばしばであるような描写が多いです。

子供たちが二人で遊ぶシーンがない
 姉が高校生、弟が小学生ということで年が離れていることもありますが二人が一緒に遊ぶシーンは出てきません。
 個人個人は自分のテリトリーに引きこもり暮らしている印象です。
 ※ダソンは積極的に全員と関わろうという姿勢があり、パク家内で特別な存在です。

家族一緒に行動したのは二つだけ。
ダソンの誕生日に家から離れるため、家族でキャンプに行く
→ダヘはギウと会いたいがために家に残りたいと駄々をこねているので、一眼となっている雰囲気はない

ダソンの誕生日祝いにパーティーを開く
→ダヘはこの時もギウと二人で過ごそうとしています
本当の意味でのパク家が集まるのはこの時しかないとも思います。

あの豪邸に住むために父は仕事人間になり、母は子供の教育に力を入れようとする。
その一方で家のことは使用人に任せっきり。パク家の人々よりも、家政婦のムングァンのほうが家や子供のことを熟知しているという始末です。
特に母のヨンギョは料理も家事もできない。
父ドンイク不在時の代わりとして、象徴的にそこに存在するだけの家主です。
そこには色もなく、染めようと思えば周りの人に染められてしまう。そんな危うい存在であったと思います。

『パラサイト 半地下の家族』印象的な画について

『パラサイト 半地下の家族』ではいくつかの印象的な画が差し込まれていたと思います。
その中でも重要と思われる以下の四つについて解説していきます。

●人物のクローズアップ
●窓越しの世界
●ティルトの効果
●臭いが語るもの

人物のクローズアップ

特に今回の映画はクローズアップが多かったように思います。
それは色々な場面で個人の表情が感情を物語り、隠そうと思えば思うほど表面に出てくるものを映していました。
また、撮影方法としてもそうする必要があったからだと思います。

出来るだけ自然光と室内にある明かりのみで撮影していたため、
夜のシーンなどは遠くからでは暗くて顔がつぶれてしまう。
そのため、クローズアップで顔・表情を映す必要があったのでしょう。

特に照明の色は印象的でした。
キム家は白色蛍光灯のため、なんとなく全員が顔色が青白く映り不健康に見える。
一方でパク家は暖色の間接照明を多く利用しているため温もりのある画面に見えてくる。

照明一つでもこんなに貧富の差が表現出来てしまうのかと少しゾクっとしました。

窓越しの世界

この映画は最初と最後の画面構成が殆ど同じで、
半地下のキム家の上部についている小さい窓から、下部へ徐々にティルトしていくショットで始まり、終わります。
キム家の窓はぎりぎり地上を映すもの。
自分たちが目指す第一歩がここであるということを示しているように思います。
そしてこのショットはキム家の社会的位置づけを見事に示しているショットであるとも言えます。

それと同様に、パク家のリビングにある大きな窓も印象に残る画として映し出されています。
家の中の窓からみた外の世界は完全に別世界のように扱われます。
外から外の庭を映す場合そのような意味合いはなく、俗世間からそのままつながってきた世界として描かれているように思います。
窓を通してみることで、一種の他人事のように捉えてしまう。
それは家の中で水石を眺めたり、日本であれば枯山水のお庭を眺めているような。
今起きていることを傍観しているだけという感覚が生まれるのです。

ティルトの効果

格差社会を表すのに多く使用されているのは段差です。
半地下に住んでいるキム家は窓から下へティルトするショット。
パク家の面接に向かうため坂道を上るギウを追いかけるショット。
とっておきは洪水の場面で、パク家からキム家へ移動する場面。階段を下りていく一向を捉えながら徐々にティルトして下の洪水の世界へと向かっていきます。
水で完全に浸水しかけているキム家のショットから水の中にカメラが移動し、今度は鳥瞰する形で水の上に浮かぶ一家を映し出しています。
下から上への視点の移動が実に見事で見入ってしまいました。

そして、一方で人が階段から上がってくる際にはカメラは一点を捉えたまま動きません。
何もなかった空間に、下から上に上がってくる人物がいきなり見えるのは何とも気持ち悪い画だと感じました。
にゅっと登場する。その家の住人なのに、まるで異世界の人達のように父ドンイクと母ヨンギョは私の目に映ったのです。

臭いが語るもの

映画では光や音はこれ以上ないくらいに分かります。
一方で全く分からないのは臭いです。
※4DXの技術を導入すれば再現は可能かもしれませんが、パラサイトは4DXを想定していないと仮定します。

それでも半地下で暮らすキム家の臭いがどんなものか私たちは想像がつくはずです。
街中ですれ違うホームレスや、地下鉄の駅で寝泊まりしている老人…。
そんな臭いが画から漂ってきます。

臭いとは言わば本能的に異物を検知するための機能のようなものです。
腐っているものは良い香りはしませんし、美味しいものは大抵良い香りがします。
臭いに対しての人間の態度は誤魔化しようもなく、率直なものなのです。
この映画を観て臭いに着目したポン・ジュノ監督はすごいなと改めて思ったのでした。

『パラサイト 半地下の家族』寄生しているのは誰か?

『パラサイト 半地下の家族』はタイトル通り”寄生”というのが一つのテーマだと思います。
社会的な寄生、金銭的寄生、精神的寄生、身体的な寄生…。
色々な寄生がありますがあまりいい意味では使われないでしょう。

一見するとキム家がパク家に寄生しようとしているように見えますが、そもそも本当に寄生しているのは誰なのでしょうか?
寄生することで生まれる危うさとは何なのか考えていきます。

相互寄生の危うさ

一見キム家がパク家に対して詐欺を働き、寄生することで生活していると思われるかもしれません。
ですが、パク家もキム家に寄生している点も多々あります。

父ドンイクの仕事の足はギテクが車を運転しなければなくなります。
母ヨンギョは家事をチュンスク(以前はムングァン)に完全に任せています。(彼女はそもそも家事全般が満足にできません。殆どの時間を昼寝をして過ごしていることが伺えます。)
子供二人の面倒もチュンスク(以前はムングァン)に殆ど任せていますし、勉強も家庭教師として来たギウとギジョンに任せています。

彼らが一度にいなくなればパク家の生活はどうなるでしょうか?
他の家政婦や運転手を雇うでしょうが、彼らがいなければ生活できない。そんな生活サイクルに陥っているのです。
そして富裕層の所得からはした金のように支払われる給料に彼らはしがみついて生きていかなければいけない。
この負のサイクルがお互いがお互いに寄生し合うことで生まれてしまっています。

日本でも同じことが起きています。
いい面も悪い面もありますが、富裕層ほどお金を時間で買うことができます。
私たちは一介のサラリーマンとして働く限り、労働とは労働に費やした時間であり、給料は労働時間とその成果に見合って出されるものです。
要するに手っ取り早くお金が必要であれば、労働時間を増やすしかない。
富裕層がお金で買っている時間に働いているのは低い時給で働かされる貧困層であるという構図が出来てしまいます。

貧困層同士が協力してのし上がることも出来たかもしれません。
でも、それは今となっては一種の幻想なのです。
ギジョンが言うように「自分のことだけ考えて生きていく」しか生き残る方法がなくなってしまっているのです。
その余裕のなさが萬栄し、世界的に格差社会が広がっていると言えるでしょう。

現代劇としてのリアル

私は韓国が日本と同じように、またはそれ以上に格差社会になりつつあるということを知りませんでした。
それでもかなりリアルに今起こっていることとして捉えることが出来ました。
近年では是枝裕和監督の『万引き家族』にもあるように、そしてそれが世界に評価されたように、格差社会が目の前に広がっているのです。

私は景気の良い時代を全く知りませんが、貧困層でも能力があればのし上がれるという時代ではなくなってしまったということが現状を引き起こす大きな要因でもあると思います。
そして、やり直しがきかず一度転落すると這い上がるのは奇跡ともいえるということ。

日本もですが、韓国も超学歴社会です。
受験のためにパトカーが出動したり、本当に受験は人生の中でも一大事です。
それも無名の大学に行くくらいだったら、一浪して名の知れた大学に入らないと就職も危ういという状況。
更に絶望的なのは、大学に受かって卒業しても五人に一人が失業するような時代であるということです。
韓国には、日本のように中小企業でも雇用と利益が安定してあるというところが少なく安定した職に一極集中する形で応募が集まるのです。

今後どのように社会が変動してくのか、未来のことは明確には分かりませんがこの映画を何十年後かに観たとき、
今の状況の発端が思い出されてしまうような悲惨なことになっていないと良いと思います。

救いがあるのは、どんな状況でも少し笑ってしまうような場面があるということ。
そんな瞬間が凄く貴重で愛おしいような複雑な気持ちになる作品でした。