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『地獄の黙示録』 ファイナルカット IMAX版の感想 手がクローズアップされる意味を考察

地獄の黙示録 ファイナルカット版 感想レビュー

『地獄の黙示録』を初めてみたのはいつだったか。
それすら思い出せないくらい昔にみた記憶がある。
なのでほぼ初めてみたかのような感想を抱いて劇場を出た。

『地獄の黙示録』は三つのバージョンが存在しており、
劇場公開版の153分
特別完全版の202分
ファイナルカットの182分
どのバージョンも2時間30分を超える大作。

その中でもファイナルカット版は劇場公開版よりも長く、特別完全版よりも短いつくりで補完はされながらも長すぎず集中してみることが出来る内容になっていると感じました。
今回はIMAX版でより大きい画面で俳優の汗の一粒一粒が見えるような映画体験ができました。

本作はジョセフ・コンラッド著『闇の奥』を原作とし、舞台をベトナム戦争として作られたものです。
気になる方は原作も読んでみるといいかもしれませんね。

以降の内容はネタバレを含みます。
未見の方はご注意ください。

目次

地獄の黙示録の感想

コッポラ監督は『地獄の黙示録』に神話的要素や黙示録的要素を取り入れ、他の文学作品からの引用もしています。
なお、撮影中には三島由紀夫の『豊穣の海』を読んで構想を膨らませていたとも言われています。

神話や黙示録的要素についての言及は沢山されていますが、
ほぼ初見の私が気になったポイントはこちら。

●手のクローズアップの意味
●川上りの作品構造
●映像美と音楽による陶酔

以下でこの三点について言及していきます。

手のクローズアップの意味

地獄の黙示録』では手のクローズアップが頻繁に登場します。
初見の私は「なんでこんなに手ばっか映されるんだ??」と思いながらみていました。
それくらい頻繁に登場するんですよ。
かなり気になったので手をクローズアップする意味を考えてみました。

目や言葉以上に『地獄の黙示録』では手の存在が大きいのです。

手にはいくつかの意味があります

●物理的な攻防のシンボル
●霊的能力のシンボル
●法的能力のシンボル

そして手は人間に言葉が生まれるまで、また現在もボディランゲージという点では言葉や伝達の意味を担っています。
『地獄の黙示録』では言葉よりも手が本音を表すものとして使われているように感じられます。
人の生活って手にあらわれますよね。
畑仕事をしている人の手、テニスをしている人の手、、
特徴がでるのは実は顔よりも手だったりするのかもしれません。

それでは気になったシーンでの手の意味を考察していきます。

ウィラードの流血した手

ウィラードは妻と離婚してまで戦場に戻ってくるほどに戦争そのものに取りつかれています。
ホテルに滞在中に部屋の鏡台の鏡を拳でたたき割るシーンがあります。
そこで鏡で手を切って流血してしまいます。

実はこれは撮影中の事故だったようで、本来台本にはなかったことだそうです。
しかし本編をみるほどに必要なシーンだったと感じます。

この場面でウィラードの手は
物理的な攻防のシンボル
なのです。

戦争から一時離れホテルで安全に暮らしていながらも、
本能は戦争を求めている。
彼の手は戦争を、流血を望んでいるのです。

彼がカーツ暗殺を受け入れるのは、カーツに対する興味ももちろん戦争への羨望からのことだったのでしょう。

暗殺指令を授ける米軍の手

ウィラードにカーツ暗殺の話を持ちかける米軍上層部の面々は顔よりも手のほうが多く映されているくらいです。
正直顔が全然思い出せません(笑)

ここでは要人暗殺に長けるウィラードにカーツ暗殺の任務を受け入れてもらうために話をしながら圧力をかけています。
つまり彼らの言葉は建前で、重要なのは手。
彼らの発言は法的な力はありませんが、当然ウィラードは断ることなどできません。
ウィラードにこの任務の拒否権は呼び出された時点でないのです。

この場面での米軍上層部の手は
法的能力のシンボル
かつ
物理的な攻防のシンボル
です。

彼らの手は一見綺麗にみえますが、ウィラードよりも血で汚れているのです。
生々しい手はが映し出されることにより観客に不信感を与え、
「この人達はヤバい」
と思わせます。

王国におけるカーツの手

大国でのカーツは日の光の下にあまり出てきません。
暗闇の中で顔も半分しか見えないような西洋画のような雰囲気で登場します。

宗教には治癒の象徴として手が使われることがあります。
キリスト教では手をかざすだけで病を治す描写もありますし、手や腕自体が信仰の対象になることもあるそうです。
カーツがウィラードに殺された時も映されるのはカーツの手でした。
民はカーツの手を見て自分たちの王が殺されたことを知ったのでしょう。

この場面でカーツの手は
霊的能力のシンボル
です。

川上りの作品構造

キルゴア大佐と分かれた後はひたすらカーツの王国を目指し川を上っていきます。
川沿いに進んでいく最中に乗組員は麻薬を使用しており、徐々に正気を失います。

全員最初から正気だったか?
と問われれば皆少しずつ狂っていたと言えるでしょう。

ウィラードは戦争に取りつかれていたし、キルゴア大佐もサーフィンするついでに戦争するというくらいです。
戦争が人を狂わせるのか、狂っているから戦争するのか…。

川を上る行為というのは狂気に近づくということでもあります。
『地獄の黙示録』では文字通り狂気=カーツの王国へ向かっていました。
私が『地獄の黙示録』を見て思い出したのは、スタンリー・キューブリック監督の『恐怖と欲望』です。

『恐怖と欲望』は墜落した兵士たちが川を筏で下って脱出するというシナリオ。
戦争という狂気から逃れるために川を下るのです。
川を上るということは戦争や狂気に近づく行為であり、反対に川を下る行為は戦争や狂気から遠ざかるための行為のように思えます。

映像美と音楽による陶酔

『恐怖と欲望』ではその自然の映像美と印象的な音楽が誰しもの心を打つ要素としてあります。
カーツの王国へ向かう途中の夕暮れや、薄暗い川の様子。
時々はさまれる自然の美しい場面が人間の狂気や戦争という汚いものをより強調しています。
人間の意思とは関係のない、ジャングルというところは何と美しいのか。
夕日のカットをみながらつい涙が出そうになりました。

音楽は冒頭とラストにドアーズの『ジ・エンド』が使われています。
『ジ・エンド』はギリシア神話をもとにした父親殺しと母子相姦を描いた楽曲。
父親殺しと聞いて思い浮かぶのは『オイディプス王』であり、プラトンのエディプス・コンプレックスです。
日本人にはあまりなじみのない父親殺しですが、『スターウォーズ』の物語もおおむね父殺しに則っているので少しは分かりやすくなるかもしれません。
『地獄の黙示録』では父殺しは王殺しとして、ウィラードがカーツを殺す物語にあてはめられます。
冒頭の音楽で物語の全てを語ってしまっているといってもいいかもしれません。

地獄の黙示録の感想まとめ

ベトナム戦争を扱ったかなりテーマ的にも要素的にも重い映画ですが、笑えるところも多々あります。
キルゴア大佐と合流する際に出会うカメラクルーに「戦争しているように演じろ」と戦地で言われたり、キルゴア大佐が爆撃が行われているなかサーフィンをしようとしたり。
狂っている人を見るのはなかなか楽しいので、あまり趣味はよくないですが狂った人を見たい人にもオススメできる映画ですね(笑)

そして何より映像が美しすぎる。
映画館でみられたのはかなりラッキーでした。
やはり大きい画面でみる映画は特別ですね。
細部まで見渡すことが出来て、ジャングルの風景も粒子が細かく目に焼き付くような映像体験となりました。
あ、あと若き日のハリソン・フォードを映画館で拝むことができたのは、ハリソンファンとして貴重な体験でした。

最後になりますが『地獄の黙示録』の特徴の一つは神話的要素や文学的要素がふんだんに詰め込まれていること。
私は中学から大学までキリスト教系の学校を出ているので聖書に関する知識は人並み以上にあると思います。
そのおかげで少しは想像できる部分もありましたが、それでも今作はかなりの教養が要求される作品です。
一回みただけでは到底理解できないので円盤を買って何度も繰り返しみるか、以下の解説本を読んでみることをオススメします。

家に円盤が来たら繰り返し見てみましょう!
きっと新たな気づきがあるはずですよ。