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『三島由紀夫VS東大全共闘 50年目の真実』考察レビュー 東出昌大のナレーションの感想

『三島由紀夫VS東大全共闘 50年目の真実』考察レビュー 東出昌大のナレーションの感想

三島由紀夫没後50年。
このタイミングで三島由紀夫の肉声と映像を映画館でみることができるのは幸運。
何といっても私は三島由紀夫のファンなのです。

山中湖に旅行に行ったとき偶然立ち寄ったのが、三島由紀夫文学館
ここで三島由紀夫の直筆原稿をみたとき、その字に惚れました。
こんなに綺麗で魅力的な文字を書く人がいるの?!
という衝撃が!!!

そして最初に読んだのは『仮面の告白』。


詩的な文体なのに読みやすく、美や性的体験に関して今まで読んだどの小説よりも魅かれるものがありました。
ただ三島文学に関しては初期から中期のものばかり読んでしまい
後期のものに触れられていません。

『三島由紀夫VS東大全共闘 50年目の真実』は三島由紀夫が自害する一年前の映像が使われています。
その点で後期の三島文学を理解するのにも役立つかもしれません。

目次

三島由紀夫VS東大全共闘が映画になった経緯

『三島由紀夫VS東大全共闘 50年目の真実』の予告や本編を見たあなたは
なぜ映画にする必要があったのか気になりませんでしたか?

映画にする理由と2020年に公開された理由はいくつかあります。

●天皇への言及
●三島由紀夫没後50年
●偶然貴重なフィルムが見つかった

この3つを軸に映画になった経緯を解説していきます。

天皇への言及

『三島由紀夫VS東大全共闘 50年目の真実』が映画になった一番の理由は天皇に対する言及があるからだと考えられます。
多分、天皇に対しての言及がなければテレビでドキュメンタリーとして放送できたのではないでしょうか。
三島由紀夫の思想や発言は天皇に重点を置いているので、討論から天皇に関しての発言をの除くことは難しいのです。

三島由紀夫は楯の会や自害の経緯から、関連映像は取り扱い厳重注意の部類。
放送業界の規定に抵触するような発言があれば民法放送で流すことは出来ません。

テレビで放送することは出来ないが、映画であれば可能だった。
という単純な理由でテレビではなく映画という選択になったのだと思います。

三島由紀夫没後50年

2020年は三島由紀夫没後50年の節目です。
映画以外にも三島由紀夫初期作品集として平凡社から『夜告げ鳥』が出版されています。

純粋に文学作品として三島文学は評価されていますが、晩年は政治的な傾向が強くなり自ら命を絶ったことからも政治的・文学的に影響を与えた人物でもあります。
どうしても「三島由紀夫はなぜ自害したのか」という部分に論点がいきがちですが、この映画は「三島由紀夫はどう生きたか」に焦点を当てています。
その点において『三島由紀夫VS東大全共闘 50年目の真実』は、没後50年経ってフラットな目線で三島由紀夫を見つめなおす貴重な機会にもなるのではないでしょうか。

学生運動や革命を歴史の教科書でしか知らない私のような若造が、当時の空気を知り体験することが出来る機会を三島由紀夫という才気あふれる人物を通して与えるという意味もあったのだと思います。

偶然貴重なフィルムが見つかった

2018年に「TBSに貴重な三島由紀夫の映像がある」という情報からすべては始まったといいます。
この討論の映像はTBSにしか存在しない幻の映像。

プロデューサーの刀根さんはこの映像をみて「とにかく理解できなくても面白い」「映画として体験してほしい」と感じたそう。
きっとこの討論の映像が発見されていなければ企画が上がることもなく、討論の映像が世の中に再び出てくることはなかったでしょう。
三島由紀夫の生きていた時代に生まれていなかった私のような若者は、映画館でハイレベルな熱い討論を見て体験できただけでも『三島由紀夫VS東大全共闘 50年目の真実』が公開された意味があると感じました。
この偶然の産物に感謝したい気持ちでいっぱいです。

三島由紀夫VS東大全共闘の考察

『三島由紀夫VS東大全共闘 50年目の真実』は討論と当時の関係者・有識者へのインタビューで構成されています。
どちらのシーンも見ごたえがあって、この二つがあるから成立しているといっても過言ではありません。

討論の内容と当時の関係者の二つの視点からこの時代と三島の発言を考察していこうと思います。

討論内容の考察

討論はまず三島の宣戦布告から始まり、時間・暴力についての討論、天皇についてのお互いの言及、そして三島の締めの言葉で終わります。
映画での発言者は主に5人。

●三島由紀夫
●芥正彦
●木村修
●小阪修平
●乱入してくる東大全共闘の学生

特に人物としては赤ん坊を抱きかかえ、タバコをふかしながら三島に切り込んでいく芥がインパクト大。
討論の内容はかなり抽象的である種の芸術論的なところがありました。
観ていて「理解」はできないが「感じる」ことはできます。

今回は印象に残った発言をピックアップして考察していきたいと思います。

言葉の有効性

三島由紀夫はこの東大全共闘との討論に来た理由を
言葉の有効性を試しに来た
と述べます。

要するに三島由紀夫は言葉によって、討論によって東大全共闘を説得できるのではないかと思っているのです。
三島を「近代ゴリラ」と挑発し、敵とみなして討論大会で叩きのめしてやろうと息巻いている東大全共闘相手にです。
しかも「近代ゴリラ」のチラシを見て三島は笑います。

若者たちの熱情を信用して自分の言葉がどれだけ通用するのか、もしかしたら自分と同じ方向を向いてもらえるかもしれないと。
だから最初に共産主義は敵だと言いながらも知識人のうぬぼれというものの鼻を折った全共闘の功績をたたえ、自分が行動を起こすときは全共闘と同じように非合法でやるしかないんだと歩み寄りを見せているのです。

そんな三島由紀夫の姿をみて司会の木村修は思わず三島先生と言ってしまいます(笑)
三島由紀夫のそんな立派な姿と言葉を聞いてしまえば先生と思わず言ってしまうのも納得ですよね。

実際討論のあとに三島は木村に電話口で楯の会への勧誘を遠回しにするのです。
木村は当時ガールフレンド(後の奥さん)の家から電話をしていました。
それを察した三島はガールフレンドに電話を替わるように言い、彼女に問いかけたといいます。
「彼(木村さん)を愛していますか?」と。
彼女は「愛しています」と答えたそうです。

彼女の答えは「正解」だったのだと思います。
そしてこの「愛しています」という言葉には強い思いがこもっていたはずです。
青年たちと全身全霊で向き合っていた三島はこの言葉を聞いてこれ以上の勧誘を止めたのではないでしょうか。

空間と持続

討論は芥の「三島さんは敗退してしまった」という一言から一気に熱を帯びます。
そして解放区の空間と持続の問題に迫るのです。

芥は解放区は空間であって時間というものは次元的に無視することが可能だと主張します。

これに対し、三島は自分の作品は時間の間にある一つの持続であって、時間は意図するが空間を意図しないと発言します。
一方で解放区は空間を意図しているなら、どこで時間に接触するのかとも言います。

二人の討論は平行線をたどります。

三島の発言で一番確信をついていたのはタバコの例なのではないでしょうか。
生産という行為から所詮モラトリアムを過ごす学生たちに
「君たちは社会的生産行為から切り離されているから時間を無視することが出来るのだ」
と言っていると考えられます。

芥たちは解放区が空間的に一瞬でも存在すれば勝利であるというスタンスを変えません。
三島も時間的に永遠に存在することは不可能であり、敗北したときに耐えられる精神というのが重要だという訴えを変えません。

途中で全共闘側の学生が業を煮やして
「三島をぶん殴れると聞いたから来たんだ!!」
と乱入してきます。
全共闘側での仲間割れによりなぜか
乱入してきた学生VS芥と三島
という構図が出来てしまうのがクスっと笑える場面でもありました。

一ミリも共有する思想がなくてもお互いの発言を聞いているときの芥と三島はすごく楽しそうに笑っています。
本気で対立を討論を楽しんでいる姿がこの場面では見られました。

天皇と国家について

ずっと平行線をたどる討論に対して小阪が両者の問題の根本に言及します。
それは三島にとっての天皇と、全共闘にとっての国家です。

三島はモーリヤックの書いた『テレーズ・デケイルゥ』を例に出して
「全共闘も日本の権力構造の中に不安を見たいのだろう、私も別の方向から見たい」
「私は安心している人間が一番嫌いだ」

と述べています。

この討論で両者の共通の敵が、芥氏の言うところの
「あいまいで卑猥な日本国」
であるということが判明します。
実はこれは今も続いていると私は思っています。

三島由紀夫は吉田松陰の生き方にも強く影響を受けています。
吉田松陰の言葉に
至誠にして動かざる者は未だこれ有らざるなり
というのがあり、これは行為そのもの自体を肯定するもので有効性などには言及していません。
三島は行為に命をかけ、失敗すれば死ぬ。
そして自身の行為と命をかけた言霊は必ず人を動かすと信じていたはずです。

全共闘側も命がけで「あいまいで卑猥な日本国」に対峙し行動してきた。
そこが両者の共通点であり、共通の言語であったのではないでしょうか。

ただし全共闘側は「個」を重視しており、国籍などにアイデンティティを求めることはしません。
三島にとって天皇は文化そのものであり、国民を内包しているものです。
それゆえに三島は日本人として生きて死んでいく。そして天皇と日本そのものと一体になることを望んでいます。

芥氏はそんな三島に対して「あなたは日本人であることの限界を超えることができなくなってしまう」と言います。
三島はもちろん「いんんだよ出来なくて」と返すのです。

三島は昭和天皇の「人間」であることへの不満も持っていますが、それと同時に「人間」として御立派である天皇に言及しています。この二つは矛盾しているように感じられますが三島にとって絶対的存在としての天皇に変わりはないのです。

最後まで三島の天皇を全共闘は許容することはありませんでしたが、全共闘側の人間はそれぞれが三島の天皇について解釈ししっかり呑み込んでいることがインタビューで分かるのです。

関係者のインタビュー

『三島由紀夫VS東大全共闘 50年目の真実』の一番の功績ともいえるのは、楯の会出身者と東大全共闘の面々が同じテーマについてそれぞれの言語で”今”語ってくれているということです。

当時どんな気持ちで発言したのか。どう総括しているのか。

特に「全共闘は敗北した」とされていることについてのリアクションが面白い。
木村修はずっと押し黙ってしまい、芥正彦は「あんたの国ではそうかもしれないが、私の国では違う」と言い切る。

芥正彦氏はあの討論の日から地続きで今を生きているのだ。ということがわかる。
彼は芸術についての思想を根底にもっていて、政治的思想というのはその上に乗っているに過ぎなかったのではないか?
そして三島に対しても”彼は日本人であり、それ以上でもなく以下でもない”と考えているように感じました。

一方で木村修氏は本当に東大全共闘の討論会で司会やってたあの人か???と思うほど丸くなっていました。
当時のことを思い出している様子も淡々としていて、かつ楽しそう。
きっとこの人は本当は今も昔も三島由紀夫という人物が好きなんだろうな。と感じさせる素振りが多くありました。

当事者の方々がご高齢ということもあって、今この時に発言が撮れたというのはとても意味がある映画なのだと思います。

東出昌大のナレーション

『三島由紀夫VS東大全共闘 50年目の真実』は東出昌大がナレーションを務めます。
その経緯としては、東出昌大は三島由紀夫の文学が好きである点と2018年に三島由紀夫原作『豊饒の海』の主演を務めたことからオファーがあったという。

出来栄えとしては正直微妙(笑)
どうしても彼の声や発音はどうしても棒読みっぽくなってしまうように感じる…
正直この討論の内容やインタビュイーの発言があるならば予告でナレーションを務めた方のほうが重厚感があってよかったのでは?

といっても良かったこととしては、1960年代の空気感を知らない若年層からみると東出昌大のナレーションくらい淡々としているスタンスが身の丈にあった感じだったのかな。
歴史の教科書に載っていた出来事の映像を見るのに最初から熱い気持ちになれる若者は少ないと思う。
そういう人たちにとっては同じようなテンションで進んでいくナレーションは心地よかったかもしれない。

残念なことに不倫騒動が収まらないなかでの公開となり、会見では映画の内容より不倫騒動の方に焦点がいってしまっていましたが…。
映画の会見なら報道陣の人たちも映画のことを聞いてほしいですね。

三島由紀夫VS東大全共闘のまとめ

討論自体かなりハイレベルですごいスピードでやり取りされるのでちんぷんかんぷんの箇所もありました。
それを補完する形で有識者のインタビューが分かりやすかった。
特に平野啓一先生の三島論は分かりやすく、納得できる解説だったと思います。
私の不勉強で、平野先生が三島論について本を出していると知らなかった…。
『マチネの終わりに』は映画化もされて有名なので、まずは小説から平野先生の著書を読んでみようと思います。

内田樹先生の解説は「身体論」を根本に据えて、三島由紀夫を政治的に解釈していたと感じます。
パンフレットでは主に「政治の季節」について解説をされているので、理解を深めたいあなたはパンフレットも買ってみてください。
文字数が半端ではなくパンフレットにも熱量が詰まっているので。

三島由紀夫にとっても東大全共闘にとっても緊迫した討論であったのは間違いない。
それでも両者とも共通点を見出し、お互いに腹を割って討論することで最終的に楽しくなっているのが分かります。
東大全共闘側は三島に切り込みながらも、すごく愉快そう。
そんな後輩たちの話をきちんと聞きながら論破しようとか揚げ足をとろうとせず、正々堂々と自らの思想をぶつけることで対峙している三島由紀夫の様にやはり惚れてしまう。
三島由紀夫が時代のスターだった意味が映画をみて、活き活きとしている姿をみて初めて理解できました。
そして同様に芥正彦氏もかなり魅力的で、大学時代にこんな人がいたら絶対友達になりたいタイプだと勝手に思いました。
現在の芥氏もすごく魅力的でオーラがある。
三島由紀夫と寺山修司、そして土方巽と出会い生きてきたというのはやはり芥氏にとっても大きな財産なのだろうな…。

誤解のないように最後に断りをいれますが、三島由紀夫が好きだからといって憲法改正や保守的な意見を支持することには繋がらないということを知っておいてほしいと思います。

『三島由紀夫VS東大全共闘 50年名の真実』は三島由紀夫にいいイメージを持っていない人に最も見てもらいたい映画。
もちろん三島文学が好きな人もぜひ!!

『豊穣の海』がインスピレーションを与えたといわれている映画。
『地獄の黙示録』の記事はこちら↓

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